■「忙しくない」からなんでもできる
毎日やることに追われ、楽しさを求め、落ちつきのない生き方をしている私たちは「退屈」から逃げまわるような日々を送っています。しかし、そんな「退屈」の中には、人生を豊かにする秘訣がたくさんあるのです。自分自身を見つめ直したり、教養を身につけたり、新しいアイデアを思いついたり……。「やることがない」からこそそこには無限の可能性が広がります。「ヒマ」を、「何もすることのない嫌な時間」ではなく「なんでもできる贅沢な時間」と考えることで、何気ない日常が何倍も面白くなっていきます。
■ヒマでいいとき、悪いとき
仏教語で怠けることを「懈怠(けだい)」といいます。「悟りを目指すために悪を断ちきり、善を修する努力を尽くしていないこと」状態で、煩悩の一つです(煩悩は、心がおだやかになるのを邪魔する心で、単に悪い心だけを意味する言葉ではありません)。
仏教で問題になるのは、目標があって、その達成のためにやるべきことがあるのにやらない場合です。目標もなく、それを達成するためにやるべきこともないのなら、怠けていることにはなりません。忙しくないからといって、怠けているわけではないのです。
午後の仕事が始まるまでの昼休みには、やることがありません。昼休みの目標は仕事をするためではありません(あえていえば休むのが目標です)から、休んでいようと退屈であろうと罪悪感を持つには及びません。
取りたてて目標もなく、やるべきことがないならどんなにヒマであっても気にすることはありません。つかの間の退屈な時間を楽しみ、次なる目標に向かうための充電期間にすればいいのです。
■注意!忙しさは“感染”します
もう一つ知っておいてほしいのは、忙しさは「感染する」ということ。誰かが忙しそうにしているのに、自分がそうでないことに罪悪感を抱き、ついその忙しさに巻き込まれに行ってしまう人がいます。
私は25歳の時、節つきのお経のコンサートのためにニューヨークに行きました。本番前日に仏具などのセッティングのために会場を訪れると、業者さんが忙しそうに舞台に敷くカーペットなどの搬入をしていました。手持ち無沙汰だった私は、いても立ってもいられずに手伝おうとカーペットを持とうとしたとたん、現地のエージェントに注意を受けました。
「それは彼らの仕事ですから、彼らに任せて、あなたは手伝ってはいけません」
人の親切心を制止することに合点がいきませんでしたが、私が手伝うことで労働組合から「自分たちのやるべき仕事を取られた」と訴えられ、莫大な賠償金を請求されるというのです。訴訟大国アメリカを実感した瞬間でした。
この経験から、人にはそれぞれ持ち場、役割があるのですから、人が忙しそうにしていても罪悪感を抱かなくてもいいし、親切心を発揮しなくていい場合があるのを学びました。社会人の多くは、すでにこうしたことを学んだ人が多いので、一人で忙しそうにしている人に近づく人はあまりいません。人助けはいいことですが、自分のやるべきことをやったら、周囲が忙しそうにしていても、一呼吸する余裕は持っていいのです。
■自分の「持ち場」を大切にする
若い仲間の中には忙しそうにしている私を見て、「和尚は毎年本を書いているし、ほとんど休みなく活動しているのだから、僕はまだまだ」とモチベーションを上げる人もいます。自分を奮いたたせるために、忙しそうにしている人にあえて近づくのも一つの方法ですが、急く気持ちのまま行動してもモチベーションは持続しません。私のように、やりたくてやっている人は忙しそうに見えてもヒマで退屈な時間を自分で作っているのです。忙しさ症候群に感染する危険を避けて、自分のテリトリー内のやるべきことを、やりたいことをやっていけばいいと思うのです。
■心の余裕を取り戻す「退屈のススメ」
「ヒマ」というのは、「仕事などに拘束されず、なんでもできる自由な時間がたくさんある」ということです。しかし、現代人の多くは、なかなかそうは考えられず、ヒマから逃げるかのように仕事などの「やるべきこと」を追い求めたり、忙しそうな人のことを手伝ったりして、心がどんどんすり減っていってしまいます。
「忙しい、忙しい」と口癖のように言っている人も、一度「何もすることがないというのは最高に贅沢な時間なんだ」と考えて、自分から進んでヒマで退屈な時間を作ってみてはいかがでしょうか。
【関連書籍】
『「退屈」の愉しみ方』(三笠書房)