1980年代終盤は、自動車業界もバブル景気に沸いていた時期。クルマの上級志向も急速に進みました。バブル絶頂と、その崩壊の足音が聞こえ始めた1989年──平成元年は、奇しくも日本自動車史に名を遺す名車が数多く登場しました。今回はそのなかから選りすぐりのスポーツモデルを4台紹介します。
■「3代目・日産スカイラインGT-R」
1989年8月にR32型系のGT-R、正式名称「BNR32型スカイライン2ドアスポーツクーペGT-R」がついに市販デビューを飾る。エンジンはRB26DETT型2568cc直列6気筒DOHC24V+ツインセラミックターボで、280ps/36.0kg・mのパワー&トルクを発生。綿密なチューニングを施した電子制御トルクスプリット4WDのアテーサE-TSやスーパーHICASも標準装備する。大型のエアインテークを組み込んだ強面のフロントマスクに迫力の前後ブリスターフェンダーとリアスポイラー、16インチの鍛造アルミホイール、モノフォルムの専用バケットシートなども大きな話題を呼んだ。
車両価格は445万円(東京標準価格)と非常に高価でしたが、最長の60回払いローンを組んででも購入する若者ユーザーが続出。販売目標が月600台だったところ、結果的に納車数カ月待ちの状態が長く続くという熱狂的な支持を集めることになりました。
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■「初代ユーノス・ロードスター」
排出ガス対策でエンジンの出力を落としたり、衝突安全性能を強化するために車重が重くなったりするなど、受難の時代を迎えて消滅しつつあったライトウェイトスポーツのカテゴリー。この状況下で、走り好きのスタッフが多いマツダの開発現場ではライトウェイトスポーツの復活、しかも現代の技術とマツダの真髄を凝縮した“人馬一体”の新世代軽量スポーツカーを生み出そうと画策した。
1983年より開発の検討を行い、1986年からは本格的な量産化を目指したライトウェイトスポーツのプロジェクトは、1989年2月開催の米国シカゴ・オートショーで花開く。
発売と同時に大注目を集め、受注台数を大いに伸ばしたロードスターは、デビュー後も精力的に車種設定の拡大や中身を進化させていきました。
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■「4代目 日産フェアレディZ」
新しいフェアレディZを企画するに当たり、開発陣は一端すべてを白紙に戻し、ゼロの状態からの理想的なスポーツカーを模索する。得られた結論は、“走り”の機能の純粋な追求だった。この走りとは、単に速さだけを示しているのではない。アクセル操作に俊敏に反応し、しかもシャープに吹け上がるエンジン、ステアリングに舵角を与えたときの俊敏なノーズの動き、緻密に動いて剛性も高いサスペンションなど、ドライバーがスポーツドライビングを心底楽しめる“走り”を目指したのである。
日産は、1985年より社長に就任していた久米豊氏の大号令のもと、「90年代には技術の世界一を目指す」という“901運動”の旗印を掲げ、設計や開発部門などで大々的に展開していました。
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■「2代目 トヨタMR2」
クルマの上級志向が急速に進んだ1980年代後半の日本。その最中にトヨタ自動車は、国産乗用車唯一の量産ミッドシップスポーツカーであるMR2の全面改良を企画する。目指したのは、充実した時間を享受できる“パーソナルドライビングマシン”への刷新。開発コンセプトには、「遊びごころのあるオトナが、満たされた時を享受するための道具」と掲げた。
ハイソカー・ブームやRVブームを横目に、10年あまりの長きに渡って生産され続けた第2世代のMR2。人々の心をとらえ続けた希少な“10年選手”の誕生秘話とは。
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