イトーヨーカドーのロゴ復活に歓迎の声。印象を左右する“マーク”は、安易に変えるべきではない

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今年、イトーヨーカ堂の鳩マークが久しぶりに復活するらしい。2011年にはJALが鶴のマークを復活させているし、なかなか、新しいマークを定着させるのは難しいようだが、それはまあ当たり前というか、昨日まで見慣れていた家族の顔が急に変わったら、それは慣れないだろうと思う。

元々、ロゴマークは看板というか、ウチはこういう名前のこういう店ですよと簡潔に伝えるために生まれたものだろう。落語の「時そば」に出てくる蕎麦屋は、「あたり屋」という。看板は的に矢が当たっている図柄だ。言葉は書かれていない。客は、「あ、あの看板の店だ」と、矢が当たっている的を目印にやってくるわけだ。商家の場合はのれんに屋号やマークを染め抜いて見せる。江戸時代には判じ物が流行っていたようで、素直に見世の名前を出さずに、絵による暗号のようなものを作って、それを看板にしたりする。「あたり屋」も判じ物の一つだし、歌舞伎の市川宗家のデザインとしてお馴染の、「鎌」と「輪っか」と「ぬ」で、「かまわぬ」と読ませる。これらは、一度溶ければ印象に残るという意味では看板として優秀な機能を持っていると言える。

いずれにせよ、基本的には、こういう看板や商標は変えないことに意味があったはずだ。または変えるなら、例えばトンボ鉛筆が、「お客様に頭を下げるという意味で下向きだったトンボのマーク」を、100周年を機に上向きにして「新たなる発展を」というマークに変えたように、その意匠は残しながらリニューアルする方が、本来的ではあるのだ。


■「イメージ戦略」に「縁起担ぎ」、その変更は本当に必要なのか?

ただ、今の世の中、合併、併合の嵐で、長くのれんを残すという事はやってられない。そこに、マーケティング理論とかブランドイメージ戦略とか企業イメージとかがくっつくと話はややこしくなる。あまり表沙汰にはならないが、絶対、験担ぎなんかも絡んでいるはずだ。日本人、特に経済関係とかお金持ちが、良くも悪くも縁起担ぎなのは知られている。そういう人は、迷信を信じるためにも、迷信だと切って捨てるためにも、看板とか名前とかを変えるのが好きだったり、戻すのが好きだったりする。このあたりが「縁起」の不思議なところで、信じていても信じていなくても、それを意識した時点で、反応は同じになってしまうことが多く、そのあたりが神霊関係の詐欺の人たちの目の付け所なのだろうとも思うが、それはまた別の話か。商標、マーク、看板、社名、印鑑なんかを変える時というのは、微妙にそういうものが絡んでる時なんじゃないかと実は秘かに思っているのだけど、どうだろう。

ともあれ、ロゴやトレードマークを変えるというのは、それが長く使われたものほど、表面的にはメリットが少ない。大企業にホイホイとイメージチェンジされても困るし、パッと看板を見て、それがいつものスーパーかどうか無意識に分かってしまうことは、生活の中で結構重要なのだ。そのマークが良いものかどうかなんて、見慣れてしまえばどうでも良くなる。どれだけカッコよく変わっても、見慣れていない方に違和感を覚えるのは仕方がない。それでも変えるというのだから、何か超自然的な何かがあるんじゃないの?と勘ぐるのも仕方がないではないか。

日清食品の元祖カップ麺である「カップヌードル」は、その人気の高さ故、味が変えられないそうだ。

実は、ロゴなどは時代に合わせて少しバランスを調整しているのだけど、それも、そーっと、分からないように微妙に変えていくのだ。皆に馴染んだものを変えるというのは、それくらい大変なことなのだ。長く馴染んだマークに、いきなりクレームをつける人とかもいる時代(結構前からいるけど)に、ずっと同じでいる方が難しいのも分かるけれど、戻すくらいなら変えなきゃいいのに、とかは、やっぱり思ってしまうなあ。リメイクは良いけど刷新するなら、それはマークではない別の部分でやればいいのではないかと思うのだ。それに例えば、私は小学館のマークの絵柄が怖かったけれど、嫌いじゃなかった。馴染んだマークというのは、単純に好きとかカッコいいとか以上に人々に刺さっているものなのだ。

 

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納富廉邦

納富廉邦

フリーライター。グッズの使いこなしや新しい視点でのモノの遊び方などを得意とし、「おとなのOFF」「日経トレンディ」「MONOマガジン」「夕刊フジ」「ココカラ」などの雑誌をはじめ、書籍、ネットなど、さまざまな...

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