そんな人生も「あるよ」!田中要次の人生の転機にいつも「事故」がある

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名刺を捨てた男◆第19回

 

そんな人生も「あるよ」!田中要次の人生の転機にいつも「事故」がある

 

一体、サラリーマンとはなんなのか。かつて会社勤めをしていた著名人たちが会社員時代を語る──。“名刺を捨てた男たち” は当時、何を考えながら働いていたのか。仕事へのモチベーション、プライベートとの比重、そして夢への挑戦……。

 

ひとつだけ言えるのは、全身全霊でその職務に取り組み、中途半端な仕事はしなかった。そして、その経験が活きているからこそ、彼らの「今」がある。その核心にせまるべく、「For M」編集部は“名刺を捨てた男たち”に単独インタビューを敢行した。

 

本連載19回目となる今回は俳優・田中要次が登場。きりっとした眉の下に眼光鋭い目。かっこいいのか人相が悪いのかよく分からない風貌が、個性派俳優として異彩を放つ。

 

元・鉄道マンだったというが、8年8ヵ月8日勤めていた安定企業を辞め、なぜ、映画界入りしたのだろうか。そして田中は、人生の転機には必ず事故を起こしたという。個性派俳優の個性的な人生の軌跡──。

 

撮影:山田英博  文:宗像陽子

 

 

■俳優デビューはほろにが。最年少で陪審員長!?

 

田中の俳優人生において舞台デビューは、高校時代の文化祭だという。「ああ、昔から俳優志望で、志は高かったのだな……」と思いきや、そういうわけでもないらしい。

 

ほとんどが男子ばかりの高校(当時は木曽山林高等学校)にあって、わずかな女子がいる部を求めて演劇部に入部したというから、いささか不純な動機だ。その初舞台は、それほど華々しいものではなかったようだ。

 

「演目は『十二人の怒れる男』をベースにした裁判の陪審員劇。人数が少なく、6〜7人でやりました。高校1年生で自分が一番若いのに、一番年上の陪審員長の役をもらったんですよ。陪審員ということがそもそもよく分からないし、観客のヤンキーのような学生たちからは『ツマんねぇ!意味分かんねぇ!』なんてひどいヤジばかり。自分でも楽しめてなかったし、すっかり演劇なんてイヤになってしまいましたよ」

 

なかなかほろ苦い思い出だったようだ。

 

 

■進学も適当。就職もなんとなく

 

田中の出身は長野県。年の離れた長男の兄は自由人で、田中が幼少のときに家を出ていき、たまに借金とともに帰ってくるような人だった。そのため次男でありがながら長男扱いだった田中は地元で就職し、家を守るという宿命を負わされていた。

 

「あんたは地元で就職するんだよ」

「この家を守るんだよ」

 

親族に言われて、「そういう運命なんだ」と反抗することもなく唯々諾々と従いつつも、いつの間にか自分の運命を、どこか兄や親のせいにして諦めているような少年だった。

 

高校は林業高校。普通校と実業校の違いすら理解しておらず、そこで林業を習うことすら把握していなかった。国鉄に就職したのも、鉄道が特に好きだったわけでもない。

 

「地元就職のために公務員試験をいくつか受けて、通ったのは国鉄だけですよ。いまだになんで受かったのか分からない」と笑う。

 

18歳で「国鉄長野鉄道管理局」(のちにJR東海へ配属)に就職。塩尻保線支区(現・上諏訪保線技術センター)に配属され、鉄道の安全を保つために巡回点検や軌道修正、レール・枕木の交換などの線路保守管理「保線」に携わる。

 

当時の国鉄は、民営化を前にして世間から「職員は働かない、態度がわるい」と風評されていた。確かに仕事に追われることはなく、現場から帰ってきてシャワーを浴び、漫画を読んで定時で帰れるほど時間的にゆとりもあった。

 

しかし、残念ながら田中は仕事に対して情熱や目標などはなかった。強いて言えば「出来ればヘルメットを脱ぎたい」という気持ちがあった程度だろうか。「一生、ここにいるしかない」という諦めが、田中を虚無的にしていたのだろう。

 

 

■映画の世界に憧れた青春時代

 

将来の夢もなく地元にいるしかなく、毎日を過ごしていた田中がハマったのは映画鑑賞だった。

 

当時は、長野から東京や名古屋まで映画を観るために足を運んでいた。そのうち、フィルムを借りてきて地元で上映するサークルに参加するようになった。

 

「就職して5年後に国鉄は民営化し、僕はJR東海の社員となって愛知県の岡崎保線区に配属となり、大府や安城の職場に勤務しました。一生地元から離れることはできないと思っていたんですが、異動により地元を離れることになって、どんどんと映画にのめり込んでいきました」

 

この映画上映サークルに入ったことは、田中にとって大きな2つの意味を持っていた。

 

ひとつは、地元を離れる術はないと思っていた田中が、映画を観ることで外の世界を知り、憧憬の思いを強めていったことだ。ブラックユーモアあり、近未来あり、社会風刺あり。小さな世界にいた田中を映画が目覚めさせてくれた。

 

もうひとつは、自分が大好きな映画を作った人と知り合ったことだった。それは当時、新進気鋭の映画監督として注目されていた山川直人監督だった。

 

山川直人監督は、愛知県出身で名古屋に来ることも多く、田中は山川夫人の活動を手伝ったことがきっかけとなり、山川監督と親睦を深めた。そして、監督の音楽系ショートムービーのバンドメンバー役に起用されることとなった。

 

「僕が高校時代からバンドをやっていたこともあり、『出てみる?』と誘われたんです。もともと映画は大好き。なかでも大好きな監督の作品に出られるということで、嬉しかったですね。有給休暇を取り、北海道ロケなどに参加しました」

 

 

■舞踏会から帰ってきたシンデレラ

 

憧れの世界を満喫した撮影現場はあっという間に終わりを告げ、また元の保線マンとしての仕事に戻ってからというもの、毎日が夢うつつ。

 

「線路で汗と埃まみれだったサラリーマンが、突然撮影現場に行って夢のような体験をしたんです。夢だと思っていた世界にこんなに簡単に関われるんだと驚きました。

 

でも、撮影が終われば元の世界に戻るわけ。シンデレラが舞踏会から帰って、また掃除をしてるようなものですよ。ハッハッハ。『自分はちゃんとガラスの靴を落としてきたんだろうか』とか、考えちゃって」

 

田中要次がシンデレラとは! というツッコミはさておき、どれほど役者体験が田中にとって夢のような時間であったのか伺えるエピソードだ。

 

純粋に映画が好きで、大好きな監督の作品に出演したことに運命を感じてしまった若き田中。「今の仕事を辞め、映画に関係する仕事にもっと関わりたい」と思う気持ちが強くなっていったのも当然だろう。

 

とは言うものの、安定企業であるJR(その頃は民営化されJRとなっていた)を辞めることについては、すぐに決断はできなかった。親はなんと言うだろうかという思いもある。フリーランスで生きていくことへの不安もあった。

 

「もともと会社員だし、給料を当たり前にもらう生活でしたから、フリーランスで生きていくというのは怖かったですね。安定した給料がない生活をやっていけるんだろうか、と。

 

こうして、夢は捨てきれないものの、踏ん切りもつかず、「せめてもう一度映画で役を貰えたら辞めよう」と思いつつ、1年ほどが過ぎていった。

 

ところがそんなときに事件が起こる。

 

 

■人生を変えた“最初の”事故

 

列車が近づいたら、線路内で作業中の人たちに退避指示を出すという列車見張りの仕事をしていたときのこと。一瞬ぼーっとしていて連絡が遅れ、あわや現場に列車が突入ということがあった。

 

「どうやったら映画の世界に入れるだろうか──」。田中シンデレラはお城のことが気になって、お掃除に気持ちが入らなくなってしまっていたのである。

 

「幸い、このときは大事故にはならなかったのですが、もし、指示が遅れて線路内で作業をしているところに列車が突入するようなことがあれば、大惨事でしたね」

 

危ない思いをしたのは、実はそのときだけではない。

 

ある原作小説の映画化の企画に自分自身を重ねた役柄をプレゼンして、それが起用されることを期待していたが頓挫。上京する理由もなくなり、どうしようと思っているときに自身が運転する車で追突事故を起こしてしまったのだ。

 

「この事故が大惨事だったら自分の人生はここで終わりだったかもしれない。どうせ失敗するなら自分が選んだ人生で失敗したい」と思った田中は、ついに決意。翌日から会社を辞めると言い出し、年末退社に向けて辞表を出す。

 

1年ほど悩んだ末のことだったから、田中自身は吹っ切れていたものの、追突事故を起こした翌日から会社を辞めると言い出した事を聞いた同僚や上司は驚くばかり。

 

「『事故のことをそこまで苦にすることはないじゃないか』と優しく言ってくれたんですが、僕の中では一応前向きでしたから、もう決意が揺らぐことはありませんでしたね。

 

今辞めないと、チャンスは2度とないかもしれないと本能的に感じていたのかもしれません。これを逃して、この先ほかに辞めるきっかけがないとも思いました」

 

当然母は怒って、荒れた。お皿を投げつけられ、「あんただけは真面目だと思っていたのに、お前もか」と嘆く母に、返す言葉もない。国鉄に入ったときには、「長男と違って弟さんは真面目で良かったね」と親戚にも言われていたのだから母の嘆きも無理はない。

 

「ただね」と田中は言う。

 

「田舎にいる頃は『自分は家に縛り付けられている』『兄のせいで人生の選択を奪われた』『母子家庭だったせいで田舎にいるしかない』と思っていました。でも開き直ったことで、自分の道を決めることができて、自分の人生は誰のせいでもなく、自分の責任になったんです」

 

母親に対しても、今までとは違う感情が芽生えていた。それは「申し訳ない」と言う気持ちだった。全部家のせい、人のせいにしていた田中は、事故をきっかけにして自分の足で歩き出し始めた。

 

 

■「良い顔してるな」。数奇な巡り合わせで竹中作品デビュー

 

「役者になる」と啖呵を切って上京、初出演した作品でお世話になったスタッフを頼り、まずは照明機材の製作を手伝っていた。1ヶ月ほどたったある日のこと、竹中直人が監督する映画の撮影を手伝わないかと誘われて照明助手として関わることになる。

 

「『髪の生え際が似ている』という理由で、竹中さんの代わりにカメラテストのモデルをやったら、『こいつ面白い顔してるなぁ。ちょっと出てもらおう』と竹中さんに言われたのがきっかけでした」

 

こうして、竹中直人の初監督作品『無能の人』(1991年)にエキストラで出演の機会を得る。

 

田舎には「役者になる」と言って出てきたものの、このころはまだはっきりと役者になると目標を定めていたわけではない。ただスクリーンでしか見たことのない人に会える楽しさ、映画作りに関われる喜びに夢中だった。

 

『無能の人』の次の竹中作品である『119』でも、スタッフ兼エキストラ出演となった。ところが、この現場は田中にとって非常に厳しいものとなった。

 

なんとまた、転機となる大きな事故に遭うこととなる。

 

 

■「もう二度と現場に顔出すなよ!」

 

『119』の現場では、照明部の機材トラックの運転も任され、コスト削減のために必要がなくなった機材をすぐ東京に返し、また必要な分だけ借りてくるということで東京と伊豆の往復に明け暮れる。

 

とはいえ、ドライバー専任というわけでもなかったので、伊豆に戻れば現場を手伝う。という状況の中、徹夜明けに宿に戻る途中で再び事故を起こしてしまったのである。

 

照明スタッフから言われたのが「もう二度とスタッフで現場に来るな!」という一言。

 

「これまで、役者とスタッフの二足のわらじだったんですが、先輩の言葉を『もうスタッフではなく、役者として戻って来い』と警めと激励の意味だと受け取ったんです。その後、役者に専念しようと決意できたので、あの言葉はとても重要な一言でした」

 

ところがその後、某番組でその先輩を探してもらい当時のことを聞いたところ「俺そんなこと言ったかなぁ。多分言ったとしてもスタッフ失格と言う意味であって、役者をやれと思ったことはない」と言われたそうだ。

 

人生は、かくもおもしろい。人との出会いや人に言われたことが自分の人生を決めているような気がしていることが多いが、実際は、自分の人生がそうなるように導いているのは自分自身なのだ。田中もいつの間にか「俳優」という職業を自ら選び取っていた。

 

道を定めた後は、肝を据え、スタッフとしての仕事の依頼は完全にシャットアウト。それまではあまりやらなかった「役者としての営業活動」も積極的にやるようになった。

 

次第にCMやドラマなどで顔が売れるようになり、2001年のドラマ『HERO』のバーのマスター役でブレイクする。何を注文されても「あるよ」と言って出してくる謎のマスターとして全国に知られるようになったのは、38歳のこと。

 

その後は、ドラマ・映画・CM・バラエティ・旅番組と実に幅広く活躍し、今年はついに初の主演映画『蠱毒 ミートボールマシン』も公開される。

 

 

■プレイヤーからディレクターへ

 

今後は、俳優としての人生をまっとうしたいのか、それともまた別の道も模索しているのか。どういう方向に進んでいきたいのか聞いてみた。

 

「JRを辞める頃は、工事監督になりかけていました。でもそのときに、どうせ監督になるなら映画監督がイイと思っていました」とニコリ。

 

「俳優はセリフが多いと覚えるのが大変だからなぁ」と意外におちゃめな部分も見せてくれた田中。「あるよ」よりも長いセリフは苦手らしい。

 

実は田中、40歳のときにオムニバス映画の監督としてデビューしている。もともと撮影現場が大好き、照明部どころか録音部も経験があり、撮影や編集もこなせる器用さがあり、今も自宅で作品の編集作業に夢中になると、時を忘れるという。

 

好きな道を目指しつつ、無理はしない。じっと時が来るのを待つ。次第にジワジワと自分自身が思うような方向へ運命が転がっていく。そんな人生を送ってきた田中のことだ。何年後には「映画監督 田中要次」としてその名を轟かせているのかもしれない。

 

おっと、その前に、くれぐれも事故にはご注意を!

 

 

◆◆◆田中要次、初の主演映画が公開◆◆◆

海外で高い評価を受けたスプラッターアクション映画

 

田中要次の自身初となる主演映画『蠱毒(こどく)ミートボールマシン』が8月19日に公開される。同作は、2005年に公開され、国内外で高い評価を獲得したスプラッターアクション映画『MEATBALL MACHINE ミートボールマシン』の続編。

 

謎の生物に操られたヒトとマシンの複合体、ネクロボーグが死闘を演じる世界観を受け継ぎながら、より過激に生まれ変わったバイオレンス・スプラッター・アクションだ。

 

昼は会社でののしられ、自宅に帰れば実家の母から金を無心される孤独でしがない中年男が田中要次演じる野田勇次だ。彼の楽しみは、落語のテープを聴くことと、行きつけの古本屋に勤める三田カヲルに会うことだった。

 

そんなある日、勇次らの街は突然巨大なフラスコに包まれて外の世界と遮断されてしまう。そして、フラスコの中の人々は、謎の寄生生物に操られた戦闘マシン・ネクロボーグになり町中で死闘を繰り広げていく──。

 

日本に先駆けて公開された海外の映画祭では、スプラッターアクションとして高い評価を得て、世界各地から上映依頼が殺到しているという。

 

DATA

『蠱毒(こどく)ミートボールマシン』

監督・脚本:西村喜廣

キャスト:田中要次、百合沙、鳥居みゆき、川瀬陽太、しいなえいひ、斎藤工ほか

配給:アークエンタテインメント

 

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この情報は2017年7月19日現在のものです。

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