【中年名車図鑑|日産Be-1】レトロ調の先駆け。とんがったクルマ=パイクカーはこうして生まれた

車・交通

大貫直次郎

先進技術を満載したクルマ造りに精力を注いでいた1980年代前半の日本の自動車メーカー。その最中に日産自動車は、“ここちよさ”を重視したファッショナブルなコンパクトカーを東京モーターショーで参考出品する――。今回は“パイクカー”と称して一大ムーブメントを巻き起こしたBe-1で一席。

 

 

【Vol.26 日産Be-1】


ハイテク技術を採用した新型車の開発に凌ぎを削っていた1980年代前半の日本の自動車メーカー。この状況に対して日産自動車の先行開発部門は、ひとつの疑問を呈する。ユーザーはもっと気楽に付き合える、心地よいクルマを求めているのではないか──。回答策として開発スタッフは、同コンセプトの検討用先行モデルの企画を推し進めることとした。

 

 

■「B案1stモデル」だから「ビーワン」?


ベースモデルとなったのは初代マーチ(K10型系)で、ここにA/B/Cの3方向からのデザインスタディが提案される。A案を手がけたのは社内の造形第1スタジオで、B案を担当したのはプロダクトデザイナー。そしてC案は、海外デザイナーが線を引いた。様々な作品が机上に置かれたが、その中で最も心地よさが感じられ、しかも既存のクルマにはない新鮮味を醸し出していたのは、プロダクトデザイナーが提案したB案のファーストモデルだった。最終的に開発陣は、このデザインのスタディモデルを製作することに決定し、東京モーターショーの舞台で披露して観客の反応を探る方針を打ち出した。


B案のファーストモデルにちなみ、「Be-1」の車名を冠したスタディモデルは、1985年開催の第26回東京モーターショーで雛壇に上がる。MID4やCUE-Xといった派手な日産製コンセプトカーと居並ぶコンパクトカーのBe-1だったが、観客の注目度という点では決して引けを取らなかった。むしろ、「発売時期や車両価格を尋ねる観客は、MID4などよりも多かった」(当時の日産スタッフ談)という。

 

Be-1は初代マーチをベースに開発。ボディタイプは標準ルーフとキャンバストップ仕様の2種類


Be-1にはユーザーのニーズがある──。そう判断した日産の首脳陣は、モーターショー後の年末になってBe-1の市販化にゴーサインを出す。しかも、開発や生産技術のスタッフには「1年以内に発売」という命を下した。わずか1年あまりで市販に移す……この命題に対して開発陣は、提携関係にある高田工業に協力を仰ぎ、共同でBe-1の市販モデルを手がける旨を画策する。またこのプロジェクトでは、大量生産を前提としない“とんがった”クルマ、すなわち“パイク”カーに仕立てる方針が打ち出された。


エクステリアに関しては、“ノスタルジックモダン”をテーマにしたデザインスタディを可能な限り再現すべく、様々な工夫が凝らされる。まず丸みを帯びたフロントフェンダーや前後エプロン部には、新開発の熱可塑性樹脂であるフレックスパネルを採用。ドアパネルなどの主要パーツには、一般的なジンクロメタルに比べて約2倍の防錆効果を持つデュラスチールを用いる。ほかにも二重構造のシルや前後の接着ウィンドウガラスなどを導入して高いボディ剛性を確保。またスタディモデルと同様、キャンバストップのルーフも設定した。


インテリアについても趣向を凝らす。キャビンルーム全体の雰囲気は、乗る人に心地よさを感じさせるデザインコンセプトで統一。ナチュラル感覚あふれるニット地のフルクロスシート、丸型のベンチレーショングリルとホワイトメーター、丸パイプ風でアレンジしたステアリングホイール/アームレスト/ヘッドレストなど、専用パーツを満載した。

 

ニット地のフルクロスシート、丸型をモチーフにした専用パーツの採用。インテリアも“とんがって”いた


生産に関しては、高田工業の横浜・戸塚工場に専用ラインが設けられる。シャシーやエンジンなどが日産から運ばれ、戸塚工場において半ば手作りで組み立て。完成した後は再び日産に送られて検査を受け、すべてを完了してから販売店に出荷される手順を踏んだ。

 

 

■いきなりプレミア! 200万円台の取引もザラ


日産自動車渾身のパイクカーは、当初の予定通りに1年あまりで生産ラインに乗り、1987年1月にはBe-1(BK10型)の名で市場デビューを果たす。車種展開はMA10S型987cc直列4気筒OHC(52ps)の1エンジンに5速MTと3速ATの2トランスミッション、標準ルーフとキャンバストップ仕様の2ボディ、パンプキンイエロー/オニオンホワイト/トマトレッド/ハイドレインジアブルーの4ボディカラーで構成。車両価格は129万3000円~144万8000円の設定で、販売台数は限定1万台とした。また広告も積極的に展開し、イメージカラーのパンプキンイエローで彩られたBe-1をフィーチャーしながら、「私は、日産のスローガンです」「クルマを変えていくのは、こんなクルマかもしれない」というキャッチを冠したCMが、クルマ好きから大注目を集めた。ちなみに、Be-1を正面から見た時の顔つきが似ていたことから、一部のファンから“クルマ界のなぎら健壱”というニックネームが付けられた。

 

ボディカラーは4色。左上から時計まわりにトマトレッド/パンプキンイエロー/ハイドレインジアブルー/オニオンホワイト


日産はBe-1のデビューをきっかけに、ユーザーとのコミュニケーション展開でも新たなアプローチを試みる。Be-1のテイストを気軽に体感できる高感度スペースの「Be-1ショップ」を、日産自動車販売や広告代理店などと組んで東京の南青山に設立したのだ。このショップでは実車Be-1の展示のほか、Be-1ブランド商品の展示・販売や各種イベントの開催などを実施。クルマによる新しい複合プロモーション活動として、業界から熱い視線を浴びた。


もうひとつ、Be-1はちょっと変わった場所でも注目を集める。プロ野球の横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)のホームグラウンドである横浜スタジアムにおいて、オープンカーに改造された赤いBe-1がリリーフカーとして起用されたのだ。当時の日産は横浜スタジアムをスポンサードしていたため、リリーフカーには以前からブルーバードの改造オープンカーが使われていたが、1987年シーズンからはBe-1が採用されたのである。リリーフカー版Be-1は3シーズンほど活躍。その後はエスカルゴ (S-Cargo) の改造オープンカーに交代し、トヨタのMR-Sなどを挟んで、日産のスポンサードが復活した2017年度からはリーフの改造オープンカーが活躍している。

 

発表当時から大ブームを巻き起こし、結果的に後のレトロブームの火付け役となった


さて肝心の市販版Be-1のほうだが、市場では異様なまでの盛り上がりを見せた。1万台の予約は2カ月かからずに終了。「とにかく早くほしい」という予約者の声に応え、月産は当初の400台から600台あまりに増やされる。また、予約にもれた人は中古車もしくは予約を譲ってくれるユーザーを探し求め、これに業者が絡み、結果的にBe-1にはプレミアがついて市場での取引は200万円台がザラだった。


「市場の大混乱を招いた」「レトロ調のデザインだけで商品化するとは、大メーカーのやることか」などと自動車マスコミからは批判を浴びたが、高性能一辺倒でクルマを開発していた当時の傾向に日産が一石を投じ、その後も続く“レトロ調”好きのユーザー志向を掘り起こしたことは確かだろう。その証拠に、日産には「新たなパイクカーのリリースを求める声が多数、寄せられた」(当時の日産スタッフ談)そうだ。この要望に応えるように、日産の開発陣は第2、第3のパイクカーの企画を鋭意進めていったのである。

 

 

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大貫直次郎

1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バ...

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