【F1回顧録】真夏のハンガリーGPで泣いた男、笑った男

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20年前までのF1は年間16戦か17戦が相場だったが、いまや年間20戦である。スケジュールは過密だが、ドライバーやチーム関係者の忙しさは当時も今も変わっていないのかもしれない。なぜなら、グランプリとグランプリの合間にテストを行っていたからだ。


年間16~17戦時代、テストは無制限だった。テスト日数に制限が設けられるのと引き換えにグランプリ開催数が増え、現在に至っている。2001年シーズンからは、強制的な夏休みが設けられた。通常、グランプリとグランプリのインターバルは2週間で、ときどき2週連続開催のスケジュールが組まれる。


ところが2001年からはハンガリーGPを最後に、3週間のインターバルが設けられることになった。夏休み明けのグランプリ(ベルギーGPが通例)までの間、テストは禁止。一定の期間、ファクトリーを稼動させることも禁止される。何もするな、ということだ。

 

 

■39歳のマンセルが初タイトルを手にした舞台


年間16戦だった頃の1992年、第11戦として開催されたハンガリーGP(77 周)を制したのは、3番手からスタートしたアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)だった。前戦ドイツGPでシーズン8勝目を挙げ、初のタイトル獲得に王手をかけて臨んだナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)は2番手からスタート。ポールポジションを奪ったのは、チームメイトのリカルド・パトレーゼだった。


タイトル獲得への重圧からか、マンセルはスタートで出遅れ、セナ、ゲルハルト・ベルガーのマクラーレン勢に先行を許し、4番手に順位を下げてしまう。8周目、マンセルはベルガーをかわして8番手に浮上。すると、39周目に先頭を走るパトレーゼがスピンしたため、セナがトップに立ち、マンセルは2番手に繰り上がった。


あとはセナを追い上げるだけだったが、62周目にマンセル車のタイヤがパンク。緊急ピットストップを行ったため、6番手まで順位を落としてしまう。だが、猛烈なスピードで追い上げたマンセルは、マーティン・ブランドル(ベネトン)やミカ・ハッキネン(ロータス)らを次々に追い抜き、7周を費やしただけで元の順位を取り戻した。さすがにセナを追い落とすには至らず、2位でフィニッシュ。それでも初タイトルを手にするには十分だった。11戦目でのタイトル決定は、当時の最速記録。マンセルは39歳だった。

 

 

■ホンダ最後の優勝もハンガリーGPだった


ハンガリーGPで初優勝を手に入れたドライバーは何人かおり、1993年にはウイリアムズに所属していたデイモン・ヒルが記録。2003年にはフェルナンド・アロンソ(ルノー)が当時最年少で初優勝を果たした。


2006年のジェンソン・バトンもそのひとり。2000年から第3期F1参戦活動を始めていたホンダにとっての初優勝でもあり(ホンダ・エンジン搭載車としては1992年のマクラーレン&ベルガー以来14年ぶり)、結果として第3期唯一の勝利となった。

 

2006年のハンガリーGPは降雨により番狂わせのレースとなった


バトンは予選で4番手のタイムを記録したが、フリー走行3回目でエンジンブローに遭遇。新しいエンジンに載せ替えたため10グリッド降格のペナルティが科され、14番手からスタートした。ハンガリーGPの舞台となるハンガロリンクはタイトなコーナーが連続するため追い越しは難しく、スタートしたら最後、動きの少ない展開になることが多かった。


だが、2006年のハンガリーGP(70周)は、朝から降り出した雨が路面を濡らしたことで番狂わせを生むことになった。雨はスタート前に上がったが曇っていたため、路面はいつまでも湿ったまま。2種類あるウエットタイヤの選択が難しかったし、タイヤメーカー(ブリヂストンとミシュランがタイヤを供給。バトンが乗るホンダはミシュランを履いていた)によって路面状況に合ったり、合わなかったりが生じた。


上位陣が次々と脱落していくなか、バトンは水を得た魚のように動き回り、順位を上げていった。26周目の時点でトップを走っていたのは、アロンソ(ルノー)。バトンは2番手にポジションを上げており、アロンソと一騎打ちの様相を呈していた。


動きがあったのは51周目のことである。トップを走るアロンソはピットストップを行い、ドライタイヤに履き替えてコースに戻った。ところが、右後輪のホイールナットがきちんと締まっていなかった影響でコースを飛び出し、タイヤバリアに激突してしまう。


労せずトップに立ったバトンは54周目にドライタイヤに履き替えると、それ以降は安定した走りでフィニッシュまで走り切った。F1デビューから114戦目の勝利で、ルーベンス・バリチェロの125戦、ヤルノ・トゥルーリの119戦に次ぐ、当時F1で3番目に時間のかかった初優勝だった(2009年にマーク・ウェバーが132戦目で初優勝し、最遅記録を更新した)。

 

バトンはアロンソとの一騎打ちの末、勝利を手にした

 

■ヤマハはあと一歩のところで優勝を逃す


ヤマハが初優勝まであと一歩に迫ったのもハンガリーGPだった。1997年のことである。89年からF1にエンジンを供給していたヤマハは、ザクスピード、ブラバム、ジョーダン、ティレルときて、この年はアロウズに軽量コンパクトな3.0L・V10エンジンを供給していた。ドライバーは、前年にウイリアムズでチャンピオンになったデイモン・ヒルと、ペドロ・ディニースだった。


ヒルは予選から好調で、ミハエル・シューマッハ(フェラーリ)と、この年シューマッハを抑えてチャンピオンになるジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ)に次ぐ3番手につけた。レース(77周)では11周目にシューマッハをかわし、トップに立つ。一時ハインツ-ハラルド・フレンツェン(ウイリアムズ)にトップを明け渡すが、フレンツェンは給油装置のトラブルで29周目にリタイヤ。30周目には再びヒルがトップに立つと、終盤にはビルヌーブに対して30秒以上のリードを築いていた。

 

ヤマハは97年のハンガリーGPでギリギリのところで優勝を逃した


ヤマハの初優勝間違いなしと思われた75周目、ヒルのアロウズA18に油圧系のトラブルが発生。走り続けることはできたが、ギヤが2速にスタックしたままになり、スローダウンを余儀なくされた。30 秒あったギャップはみるみる縮まり、最終周にはビルヌーブがヒルを抜き去って、シーズン5勝目を挙げた。ヤマハは未勝利のまま、1997年シーズンをもってF1参戦活動を終えた。
 

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モータリングライター&エディター

世良耕太

モータリングライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1世界選手権やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全...

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