【中年名車図鑑】「60回払いローン」でも欲しかった…日本中の若者が熱狂した伝説のスポーツクーペ

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大貫直次郎

R31型スカイラインが発売されて間もなく、日産自動車の開発陣は早くも次期モデルの構想を立ち上げる。その最中で開発主管の伊藤修令氏は、1985年11月に富士スピードウェイで開催された国際ツーリングカー耐久レース(インターTEC)で、DR30スカイラインがボルボ240ターボやBMW635CSiに惨敗したことにショックを受けた。「S54やハコスカGT-Rの開発に携わった者としては、レースでスカイラインの惨めな姿を見ることは耐えられない。次期型ではGT-Rを復活させ、ツーリングカーレースを制覇してやる」――。今回は再びレースで勝つことを使命に開発されたBNR32型スカイラインGT-R(1989~1994年)で一席。

 

 

【Vol.32 3代目・日産スカイラインGT-R】


時は1980年代の半ば。スカイラインの開発主管である伊藤修令氏はR31型“7thスカイライン”の改良と並行して、次期型スカイラインの企画立案を進めていた。そして1985年末には早くも本格的な構想を練り、翌86年3月には基本コンセプトなどの概要をまとめる。そしてこの時、ひとつの戦略を打ち出す。「どうせ主査として最後の作品になるのだから……」と思い、個人的に“GT-R”の復活を画策したのだ。

 


ここで伊藤主管に追い風が吹く。日産が社内の啓蒙策として推進した“901運動”だ。「90年代には技術の世界一を目指す」というこの運動は、1985年6月に社長に就任した久米豊氏の大号令のもと、開発部門で大々的に展開されていた。この運動の中、伊藤主管は開発担当の役員にこっそりと提案する。「日産の技術イメージを高めるためには、GT-Rの復活が最も有効。次期型で、ぜひやりたい」。やがてGT-R復活の気運が首脳陣のあいだで盛り上がり始め、1986年中ごろには、伊藤主管自身が首脳陣の前でGT-R復活の企画を発表した。すでに復活の流れが大勢を占めていた状況下で、首脳陣がノーを出すはずがない。この時点でGT-R開発のゴーサインが、首脳陣から正式に発せられた。

 

 

 ■「レースで勝てるクルマ」「2、3年先をいく先進的なクルマ」

 

全長×全幅×全高4545×1755×1340mm。2568cc直列6気筒DOHC24V+ツインセラミックターボ(280ps/36.0kg・m)


伊藤主管は新しいGT-Rの開発に当たって、大きなテーマを掲げる。それは「レースで勝てるクルマ」それも「2、3年先をいく先進的なクルマ」だった。また、GT-Rの開発が外部に漏れないように気を配り、箝口令を敷くと同時に開発スタッフには“GT-X”の名を使うように指示する。開発陣がまず検討したのは、心臓部となるエンジンだった。目標出力は600馬力以上。富士スピードウェイでのラップを念頭に置き、勝つために必要な出力を入念に算定した結果の数値である。当時の日産の量産高性能エンジンは、RB型系直列6気筒DOHC24VのほかにVG型系V型6気筒DOHC24V、開発中のVH45型系V型8気筒DOHC32Vなどがあった。そのなかで開発陣は、中近東向けのローレルに採用していたRB24E型2.4リッター直6ユニットを選択。これをベースに、DOHC24Vヘッドとツインターボを組み合わせる計画を立てた。

 

レースに勝つために駆動方式を4WDとし、排気量を2.6リッターまで引き上げた


エンジンが決まりかけていた最中、社内から駆動メカに関する新たな話が持ち上がる。強大な馬力に対応するためには、4WD化が必要なのではないか──。GT-Rが参戦を予定していたのはツーリングカーレースのグループAカテゴリーだったが、タイヤ幅やリム径などの規定を考えると、FRのままで600馬力を路面に伝え切るのは相当に難しかった。また、当時はポルシェ959など、スーパースポーツの4WD化が流行の兆しを見せつつあった。そこで、GT-Rの4WD化の話が持ち上がったのである。レースに勝つための先進的なクルマを製作する──当初の目標を達成するために、開発スタッフはGT-Rの4WD化を決心する。同時に、搭載エンジンの見直しも図った。エンジンは4WD化に合わせて、排気量を2.6リッターにまで引き上げる決定を下す。さらにクランクシャフトを新設計し、ブロック剛性なども高めて、耐久性を向上させた。ほかにも直動式軽量インナーシム型バルブリフターやツインセラミックターボチャージャー、6連スロットルチャンバーといった先進アイテムが組み込まれる。一方で4WDのメカは開発ルームと中央研究所で四駆連絡会を作り、企画が進められていった。当初、開発陣は既存のアテーサシステムをベースにした改良版を検討する。アテーサはセンターデフにビスカスLSDを組み合わせた、いわゆるファーガソンタイプの4WDだったが、GT-Rに搭載する際には操縦性と旋回性能に難があった。この問題を解決するためには、多板クラッチを使った4WDを採用するしかない──。ここで中央研究所のスタッフが斬新な4WDシステムの開発に成功する。後輪駆動をベースに、走行条件に応じて前輪にトルクを配分する湿式多板クラッチを用いた“電子制御トルクスプリット4WD”を作り上げたのだ。後に「アテーサE-TS」と名づけられるこの新4WDシステムは、1987年3月にGT-Rへの正式採用が決定された。


エンジンと駆動系のほかにも、開発陣のGT-Rに対するこだわりは続いた。サスペンションは4輪マルチリンクをベースに大幅な改良を実施。アクスルハウジングにはバネ下重量の低減を狙ってアルミ材を奢る。さらに、転舵初期に一瞬後輪を逆相にステアし、旋回中は同相に制御するスーパーHICASも組み込んだ。ブレーキはアルミキャリパー対向ピストン式で、フロントには4ピストン、リアには2ピストンを採用した。


内外装へのこだわりも半端ではなかった。外装は当初から5ナンバーサイズにとらわれず、アグレッシブなブリスターフェンダーを採用してワイドな前後トレッドを実現する。冷却性能を高めた専用グリル&バンパーやダウンフォースをかせぐ大型リアスポイラーも、何度もテストを重ねてスペックを決めた。内装に関しては、ドライバーの筋肉の動きと血液の流れをデータ収集し、これを参考にして最適の形状を作り出したモノフォルムのバケットシートや操舵性を重視した本革巻きステアリングなどを開発した。

 

 

■「車両価格445万円」ながら若者から熱狂的な支持を集めた

 

インテリアもアグレッシブ。モノフォルムのバゲットシートは、ドライバーの筋肉の動き、血流を考慮してデザインした

独ニュルブルクリンクでの過酷な走行テストなどを経て、1989年8月にR32型系のGT-R、正式名称「BNR32型スカイライン2ドアスポーツクーペGT-R」がついに市販デビューを飾る。エンジンはRB26DETT型2568cc直列6気筒DOHC24V+ツインセラミックターボで、280ps/36.0kg・mのパワー&トルクを発生。綿密なチューニングを施した電子制御トルクスプリット4WDのアテーサE-TSやスーパーHICASも標準装備する。大型のエアインテークを組み込んだ強面のフロントマスクに迫力の前後ブリスターフェンダーとリアスポイラー、16インチの鍛造アルミホイール、モノフォルムの専用バケットシートなども大きな話題を呼んだ。


GT-Rの車両価格は445万円(東京標準価格)と非常に高価だった。しかし、最長の60回払いローンを組んででも購入する若者ユーザーが続出する。販売目標は月600台だったが、結果的に納車数カ月待ちの状態が長く続いた。

 

 

■グループA参戦のベースモデルの発売と緻密な改良


BNR32型GT-Rの登場から半年ほどが経過した1990年2月、500台限定の特別なGT-Rが市場デビューを果たす。車名は「GT-R NISMO」。日産自動車のモータースポーツ部門であるNISMOが手がけた、グループA参戦のためのベース車両が発表(発売は3月)されたのだ。GT-R NISMOは冷却性能の向上やエンジンの耐久性のアップ、ボディの軽量化などを主要テーマに開発される。冷却性能についてはエアインテークを増設したフロントバンパーやボンネット先端に装着するフードトップモールが訴求点。空力性能も強化され、リアタイヤ前部にはサイドシルスポイラーを、トランクリッド部にはサブスポイラーを装備した。RB26DETTエンジンに関しては、ターボのタービンをセラミック製からメタル製に変更し、同時に標準のT3よりも1サイズ大きいT04Bコンプレッサーを組み込む。エグゾーストマニホールドも専用設計とした。


BNR32型GT-Rは、1991年8月に初のマイナーチェンジを実施する。変更内容は安全性と信頼性の向上に主眼が置かれ、同時に内外装の一部パーツもリフレッシュされた。安全性の向上はプロジェクターヘッドランプのレンズ拡大とバルブの変更(H3C→H1)、サイドインパクトビームの追加、ボディ各部の剛性アップ、運転席SRSエアバッグのオプション設定などがメインメニューとなる。信頼性についてはリアブレーキキャリパーシールの材質変更、クランクシャフト形状の見直しとシリンダーブロックの補強、トロコイド式オイルポンプの内接ギアの設計変更などを実施した。ちなみに、このマイナーチェンジの1カ月ほど前にはN1規定レースのベースモデルとなる「GT-R N1」が受注生産の形でリリースされる。製作を担当したのはNISMOで、限定車のGT-R NISMOと同様に徹底した軽量化と信頼性の向上が成された。また、豊富できめ細かいNISMO製パーツのオプション展開も脚光を浴びる。N1仕様はベースとなるGT-Rの改良に合わせながら、1994年まで生産が続けられた。


1993年2月、BNR32型GT-Rは2度目のマイナーチェンジを敢行する。変更の主要テーマは「従来型のウイークポイントの解消」にあった。さらに、全日本ツーリングカー選手権(JTC)グループAの3連覇を記念したスペシャルモデルの“Vスペック”も設定し、GT-Rファンの大注目を集めた。標準モデルとVスペックともに新たに採用したのは、プル方式のクラッチだ。従来のプッシュ式に比べてスプリング力が強化され、耐久性と切れの向上、さらに踏力の軽減が図られる。組み合わせる5速MTのシンクロメッシュ機構にも改良が加えられ、信頼性が確実にアップした。一方でVスペックは、足回りや駆動系にもメスが入れられる。足回りには225/50R17タイヤ(ブリヂストン・ポテンザRE010)+BBS製8JJ×17インチ鍛造アルミホイールを装着。ブレーキも強化され、ブレンボ製キャリパーと大容量ローターが奢られた。駆動系ではアテーサE-TSのチューニング変更が注目点。従来よりもアンダーステアを低減する方向に制御ロジックを書き換え、よりスムーズかつ俊敏なコーナリング性能を実現した。

 

 


■GT-R史における中興の祖に昇華

 

R32型系スカイラインは1993年8月に全面改良を受け、9代目となるR33型系に切り替わる。しかし、GT-RだけはR32型系のままで生産・販売され、Vスペックを中心に堅調な売り上げを記録し続けた。

 

93年に登場したVスペック。17インチBBSアルミ、ブレンボ製キャリパー&大容量ローターを装備する


1994年2月になると、BNR32型GT-Rの最後のスープアップモデルとなる“VスペックⅡ”がリリースされる。このモデルは、全日本ツーリングカー選手権グループAの4連覇を記念したスペシャルモデルの意味合いも持っていた。VスペックⅡの変更ポイントは、タイヤに集約される。当時、新たに45偏平タイヤが日本で認可されたため、それに対応した245/45R17サイズのタイヤを装着したのだ。銘柄はブリヂストン・ポテンザRE010。ホイールにはBBS製の8JJ×17インチ鍛造アルミを組み合わせた。


市場に大きなインパクトをもたらしたBNR32型GT-Rは、1994年11月のラインオフをもって生産が終了される。総生産台数は4万3934台で、内NISMOが560台、Vスペックが1453台、VスペックⅡが1303台、N1が228台を数えた。500万円前後の高価なスポーツモデルとしては、異例に多い生産台数だ。それだけBNR32型GT-Rの魅力度は高く、ファンも多かったということなのだろう。このモデルが生み出されなければ、GT-Rの歴史は1970年代で終わっていた可能性が高い。その意味で、BNR32型はGT-R史における中興の祖といえる一台なのである。

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大貫直次郎

1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バ...

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