過剰な自粛ムードと“迷惑支援”を生むSNSの罪

話題

 

■5年前の教訓は生きているのか

 

熊本地震の発生から、およそ2週間が経過しました。14日に起きたマグニチュード6.5の大きな地震が、16日深夜のマグニチュード7.3の「本震」発生によって、実は「前震」であったとわかったときのショック。余震も長く続き、阿蘇・大分へと震源が東へ移動しているとも報告されました。「日本の近代観測史上に例がない」「過去の経験則があてはめられない」と言われるほどの大地震で命を落とされた方々のご冥福を祈り、被災された方々の、今も続く避難生活のご苦労を思います。

 

5年前の東日本大震災での学びから、報道クルーやボランティアの皆さんが被災地へ向かう際にも、現地の迷惑とならないよう細心の注意を払って行動する様子が見られました。現地でデマ情報が発生しても、被災地では冷静に対応。「直接被災していない人間は、普段通りの生活をしながら支援をするのが災害時のあるべき姿」という考え方も浸透し、義援金活動や現地が確実に必要とする物資を送るなどして支援の気持ちを表現する一方、自分の日常生活を粛々と送って熊本のニュース報道に耳を傾け続けている人々もたくさんいます。東日本大震災から学んだ災害時の心がけを守っているということの表れかもしれません。

 

 

■「不謹慎厨」と「自粛不要論」、「千羽鶴に勇気をもらった」と「千羽鶴無意味論」

 

それでも地震発生後、被災地の外側で沸き起こったのは「不謹慎だから自粛」という、既視感のある動き。テレビでお笑い番組が放送自粛され、さまざまなモノやニュースのリリースが見送られました。SNSでは「不謹慎厨」と呼ばれる人々が特に有名人の発言や行動をターゲットにして「こんな時になにをやっているのだ」と非難して回るという、2011年の東日本大震災でも覚えのある動きが見られました。

 

自粛ムードについては、むしろ被災した熊本の人が積極的に「自粛など必要ない」と声をあげたことで早期に解けた気がしますが(『「勘違いの代弁者ぶるやつは黙っとけ」 熊本地震でのウーマン村本大輔さんのツイートに反響』)、その後も「一時的にでも自粛したという事実」をめぐって、しつこく揉めている人々がいます(『松本人志、ホリエモンのバラエティ自粛不要論に「心がない」』) 。

 

また、支援の内容にもいろいろとものいいがつきます(「千羽鶴・古着・生鮮食品は要りません」 被災地が困る「ありがた迷惑」な物とは)。合理的に考えて、被災地が必要としないものを送りつけるのは、その処分までを含めて現地では非常に限られた人的労力の無駄、コストになります。東日本大震災のときに「被災地が送られて困ったもの」として挙げられた千羽鶴なども、今回の熊本地震でまだせっせと作って送る人がいる、として非難の対象になったかと思うと、「いや、東日本大震災で避難所にいたけれども、僕のケースでは千羽鶴は嬉しかった」とする人もいて、賛否があります(『千羽鶴を被災地に送ることは完全に無意味なことではない』)。

 

地震の直後から銀座熊本館にできた客の行列にも、賛否があります。これは「買って支援」だ、みんなここでどんどんものを買って熊本を応援しよう、という人もいれば、「ただの“爆買い”で、支援した気になっているだけ。異常な行列は周辺にも迷惑だし、スタッフの態勢が整っていない店にも迷惑」と批判的な視線を向ける人もいます。

 

結局、ここで焦点となっているのは、それぞれの状況に応じた「気持ち」の問題のようです。

 

 

■空気の読める日本人がなぜ“迷惑支援”に走ってしまうのか

 

自嘲も込めてよく言われるように、日本人は“空気を読むのが得意”。なのに、なぜこうした有事の際に被災地のためにどう行動するか(あるいはしないか)で揉めるのでしょうか。

 

“想像力”に欠けるのでしょうか? むしろその逆で、日本人はやりすぎなくらいに空気を読み、想像力を働かせすぎているために、被災地とは離れたところでこのような摩擦が起きているのではないでしょうか。

 

特に現代は、SNSの普及で自分の本来の視界・生活圏よりもはるかに遠くの人の心の中や行動が見えるようになっています。すると、有事に際して「(ポーズでもいいから)何かしないと、それは怠慢である」と妙な焦りが出るのだと思うのです。「自分はこう行動した」との何らかのハンコを周囲がどんどん押していくのを見て、自分も何かせねばならない、何かのハンコを押さねばならないと、とにかく焦る。

 

SNSには、普段から自分にも他者にもいいこと、正しいことを行い、かつそれをくまなく周囲にシェアするのが習慣の、「立派な人」がいます。そういった人が呼びかける何かに対して、“有事”の当事者、当事者でないにしても縁があって有事の詳細に詳しい人が新情報を加える形で拡散していきます。

 

そのときの行動の基準が「現地の人々のため」であるならばいいのです。ただ、SNSという、実のところ皆が実生活以上に精神的に依存しているバーチャルな場所では「普段の自分の論調との整合性」という特殊なプレッシャーがかかっていることが、SNSでの人々の動きのもう一つの大きな要素です。すると、アピールめいた投稿やシェア、論調が噴き出し、またそこへ批判が起こります。

 

「自分も何かをしなければ」との焦りが、どうしたことか怒りとなって「この投稿の良さがわからない奴は馬鹿!」と拡散を強要する人まで出現します。どういった行動も、「何かせねば」と思う時点で基本的には良識派とも言えなくはないのですが、結局SNSでの行動というのはどこか他者の視線を意識した承認欲求と最終的には繋がっているため、ポジティブなものにせよネガティブなものにせよ、見当違いな善意の押し付けがそこかしこで起こってしまうという図式です。

 

そもそもが、SNSで「行動や考えをアピールする」ところに目的の歪みがあるわけで。純粋に被災者を助けるのであれば、SNSは情報収集のツールとして使い、自分が考える支援の形を見つけたら黙って行うのが、結果的に最も被災者を思いやる気持ちのスマートな表れとなるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらいいね!しよう

citrusの人気記事をお届けします

SNSで記事をシェア

コラムニスト

河崎 環

河崎環(かわさきたまき)/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川県育ち。桜蔭学園中高から転勤で大阪府立高へ転校。慶應義塾大学総合政策学部卒。欧州2カ国(スイス、英国ロンドン)での暮らしを経て帰国後、Web...

河崎 環のプロフィール&記事一覧
ページトップ