【衝撃】「すき家」の創業者は「吉野家」の○○○だった! ドラマみたいな本当の話
数ある牛丼チェーン店のなかで最多の店舗数を誇る「すき家」(2020年6月現在)。ですが、すき家の創業者は元々「吉野家」出身だったとか……。今回は牛丼界のキング・すき家が現在の地位を築くまでの歴史を紐解いていきます。
■前身は横浜・生麦の弁当屋! 吉野家出身の社長が生んだ「すき家」
すき家を経営する「株式会社ゼンショー」(現・株式会社ホールディングス)は1982年に横浜市鶴見区の生麦で生まれました。創業者の小川賢太郎さんが、当時から“飢餓と貧困をなくすためにチェーン展開をしていく”というビジョンを持っていたことから、店舗より先に経営本部を作ったそうです。
資金500万円でスタートさせたというゼンショーは、設備投資を抑えられるとして弁当屋「ランチボックス」を開業。2年半で7店舗ほどチェーン展開をし、その経営は好調に見えました。
しかし小川さんは、“このままでは世界一になるのには時間がかかりすぎる”と感じ、複数のおかずを調理する必要がある弁当ではなく、牛丼を提供するという経営スタイルに切り替えました。
実は小川さんには、牛丼業界のパイオニア的存在の吉野家に、店舗スタッフから経営の一旦を担う立場にまで出世していたという経験があったのです。“やっぱりこれだ”と牛丼というメニューに眠る力を確信した小川さんは、生麦に牛丼を専門に提供する「すき家」をオープンさせました。
■“男がひとりで”のイメージを逆手に取った店づくりで牛丼チェーンのキングに!
心機一転、すき家の経営をスタートさせた小川さんでしたが、順風満帆とはいかなかったようです。月商500万円を目標にしていたものの、どう頑張っても300万ほどしか売り上げが立ちませんでした。
しかし、小川さんはこの時、吉野家の影響で牛丼には“男性がひとりカウンターでガツガツ食べるもの”というイメージが定着していることに気がつきます。そこで、従来のイメージを覆そうと2号店からはテーブル席を設けることにしました。
テーブル席を設けると生産性が落ちるため、最初の10年間は経済的余裕があまりなかったそうですが、徐々に客数や客単価も向上。1997年に株を店頭公開、2001年には東証1部に上場しました。こうして研鑽を重ね、すき家は2008年の9月末に店舗数で吉野家を抜き去り、牛丼チェーン店トップに登り詰めたのです。
1号店である生麦駅前店は現存しませんが、すき家には横浜生まれであることを感じられるポイントがいくつかあるのをご存知でしたか? ひとつはすき家の外観。ロードサイド店の場合、すき家の建物の上部に時計が設置されていることがありますが、このつくりは横浜開港記念館に倣っているのだとか。もうひとつは、牛丼を食べ終わると見えるどんぶりの底に「YOKOHAMA」の文字があるということです。すき家を訪れる際には是非チェックしてみてください。