「◯◯しかできないバカ」の「バカ」は、その欠落が生み出す「天才性」の証である…説について

 

上智大学の国際教養学部教授である中野晃一さんというヒトが、自身のツイッターに

 

 
「スポーツしかできないバカって本当に世界的にこんなにゴロゴロいるんだね。医療崩壊目前にしてオリンピックやらんだろ」

 
……と投稿し、プチ炎上しているという。そして、社会学者の古市憲寿氏(36)が、前出の物言いに対して『デイリー新潮』で

 

 
仮にスポーツ選手が「スポーツしかできないバカ」なら、大学教授は「研究しかできなバカ」だ。だが、それで構わない。哲学者プラトンがレスラーとしても名を馳せていたように例外も多いが、プロは本業以外バカでもいいのだ。

 
(中略)だが気になるのは、中野さんがスポーツ選手をいとも簡単に「バカ」と断じていることだ。その理屈が通るなら、「大学なんて研究しかできないバカの集まりだ。廃止してしまえ」と言われても仕方ない。

 
……みたいな反証法によって、その発言をチクリ攻撃していた。

 
「バカ」というワードを完全に誹謗中傷目的の揶揄的な意味合いで使用するのなら、古市氏の“皮肉”はまったくもっての正論であり、このディベートをジャッジするネット住民の大半は古市氏側に「一本!」の旗を上げることだろう。(今回、中野氏は明らかに揶揄の意を込めて「バカ」と放言している風にしか捉えられないが?)

 
しかし、この「バカ」だけを切り離し、もし「求道者」的な、いわゆる“リスペクト”の念を含むニュアンスで解釈するならば……これはこれで“才能”たるものの本質を示唆する、なかなかに味わい深い形容だと言えなくもない。

 
五輪アスリートにせよ大学教授にせよ、スポーツや学問ほか、あらゆる分野の頂点に立つ“スペシャリスト”とは、誰もが紛れもない、ある種の「天才」だと私は思う。また同時に「天才」ってやつは「なにかの能力に優れている」というよりは「なにかの能力が欠落している」ものだとも思う。常人が普通に兼ね備えているなにかの能力が欠落しているがゆえ、一つのことをとことんまで突き詰めることができるから、結果としてその能力が“突出”してしまう。

 
なんでもかんでもそこそこに(=並みの下くらいに)こなせてしまう(と、約60年間の半生を振り返りながら自己診断を下している)私は、だからなにかにおいて“突出”ができなかった。できなかったから、そういう天才的な欠落性を持つスペシャリストに、いまだ憧れの念を抱いてしまう。そう! 古市氏が申すとおり「プロは本業以外バカでもいい」……私はそんなバカになりたい。

 
ただいっぽうで、たとえば『ドカベン』の殿馬一人のように、奇想天外な打法や守備でプロの野球選手としてもプレイしながら、世界的な指揮者アルベルト・ギュンターに見染められるほどのピアノの腕前をも持つ“突出”した文武両道──古市氏曰くのプラトン的な“二刀流”にも憧れる。野球においてはすでに「大谷翔平」というとんでもない“二刀流”が、漫画じゃなくリアルに大活躍を果たしている昨今、「第二の殿馬」の出現も夢ではないのかもしれない?