一(イチ)紙たばこ愛用者として猛烈な共感をおぼえた、女性スモーカーというマイノリティー視点から語るwriter・鈴木涼美さんの喫煙論

 

「writer」を職業とする鈴木涼美さんという女性が、『ORICON NEWS』で(おもに)「喫煙」をテーマとするインタビューに応えていた

 

私は前々からこの鈴木涼美さんが書く一連の読み物をわりとマメにチェックしていたりする。 “同業者” として、その一見素っ気無い文体から提唱される、さまざまな事象に対するスタンスが、なんとも “ゴメス好み” なのである。そして、今回の記事中にあった鈴木さんの、女性喫煙者の視点から展開する「喫煙論」に、紙たばこをいまだ(?)愛用する「マイノリティー」の一人でもある私は、猛烈な共感をおぼえた。「感動した!」といっても過言ではないだろう。

 

「たばこの煙やにおいがイヤだという人の前では吸わない分煙家」だという、また、かつては嫌煙家の男性とも付き合った経験があるという鈴木さんはこう語る。

 

「私の友人でも、健康だけではなく、 “モテ” に重きを置くとみんな(たばこを)やめていきます(笑)。たしかにやめたほうが、モテのパイは広がるでしょう。だけど私は “思想” を押し付けてくる人がイヤなんです」

 

(中略)「においや煙以上に、たばこを吸っていること自体が許せないという男性だったんです。彼が吸う吸わないはもちろん彼の思想だし、たばこのにおいが嫌だとか家や車で吸われるのが嫌だと感じるのはもちろん彼の自由ですが、たばこを吸う女性自体に嫌悪感があるのは一つの “思想” であって、それを私に共有しろという圧力は嫌でした。許せないのであればどうして私と付き合ったのか。おそらく懐柔できると思ったのでしょうが、一方向の正しさを押し付けてこられるのは苦手です」

 

「許せないのであればどうして私と付き合ったのか」

 

このくだりは、じつに重要なポイントだと思う。

 

コンプライアンス的な事情で「ヘイト=悪」という空気が実社会上を支配しつつあるなか、喫煙は「人の健康を害する可能性がある」という大義名分から、大っぴらに批判できる数少ない対象と見なされています。

 

……とも鈴木さんは分析するが、そんな最強の「大義名分」を印籠とし、嫌煙家の方々はスモーカーを「懐柔できる」……もっと強い表現に変えれば「懐柔すべき!」と、一種の義務感にも近い “使命” を抱くのかもしれない。

 

私も、どちらかといえば「モテに重きを置く」ほうの人間ゆえ(笑)、さらに草野球でも最近は二塁まで走っただけで小便をチビりそうなくらいに息切れしてしまいがちなので、できればたばこはやめたいと常々考えている。そう「懐柔」してくる、あるいは「(せめてもの)加熱式たばこへの転向」を促す(※←案外コッチのほうが多数派?)チームメイトも増えてきた。

 

食事や飲みの席でたばこを吸わないことにはもう慣れた。むしろ、嫌煙家同様「料理の香りがたばこの煙で台無しになるのはキツい」とすら感じるくらいだ。もちろん、喫煙所以外でたばこは吸わないし、ポイ捨てもしないし、非喫煙者の家での喫煙も、基本的には遠慮する。が、ここまで肩身の狭いおもいをしながらも、やはり原稿を書くときだけは絶対に「禁煙」はできないのである。禁煙外来にも通ってみたが、ダメだった。もし仮に、自分のパートナーが「喫煙者である私」自体のことを、かなり強硬な姿勢で嫌煙家へと「懐柔」しようとしてきたら……現時点だと、私はそのヒトのことがどんなに好きでも、やはり別れるしかないだろう。だって、たばこをやめれば、私は途端に無職となってしまうのだから……。

 

ところで、鈴木涼美さんって……只今著書の『ギフテッド』(文藝春秋)が第167回芥川賞候補になっているらしい。鈴木さんは、私がぼんやりと頭に浮かべていることをいつも優れた文章表現力でクリアにしてくださる。願わくば、こういうヒトにこそ、芥川賞を獲ってもらいたい。