芸能人がボランティアして何が悪いのか? 紗栄子のボランティアに、いまだ物申すヒトたちに物申す!

コラム

 

モデルの紗栄子(33)が3月10日放送の『ノンストップ!』に出演し、ネット上で多くの批判を浴びながらもボランティア活動を続ける理由を語っていた。
 

「多くの批判」の内容のおおよそとは、ズバリ「売名」。たしか、自身のボランティア活動風景をやたらSNSに投稿したり、なにやらの災害に対する復興支援の名目で、けっこうな額の寄付金を振り込み、その明細もアップしていた記憶がある。そこらへんの“露出過剰”が、「やるならこっそりやれ→わざわざ名乗らなくても=売名」的な理屈で、バッシングの対象となってしまったわけだ。
 

2010年に地元・宮崎で家畜伝染病「口蹄疫」が広がった際、寄付を行ったのがボランティアを行うきっかけだったという。2011年の東日本大震災のときは「子どもたちがまだ小さかったので自分が実働でボランティアをする選択が取れなかった」そうだ。ちなみに、番組内で彼女は「ボランティアの経緯を公開する理由」を以下のように語っていた。
 

「せっかくこういう仕事をさせてもらえて、影響力を持たせてもらえたので、こういうことって当たり前のことだよねっていうロールモデルをつくっていくことで、次の世代の人たちがアクションを起こせるような架け橋になれればと思っています」
 

「私はシングルマザーなので、父親の役割も母親の役もやらなきゃいけない。そういう意味では私の背中を見て学んでくれたらなあって」


私は、たまたまリアルタイムで、この紗栄子コメントをテレビで観ていたのだが、控えめな口調ながらも、じつに淀みなく凛とした信念を感じさせる好感の持てる物言いであった。

 

これはあくまで個人的見解でしかないのだけれど、私は極論してしまえば「ボランティアはやった者勝ち」だと思っている。現地に飛んで実働に励もうが、我々凡夫たちには想像すらできないケタの大金を寄付しようが、コンビニのレジ前にある募金箱に釣り銭の1円玉数枚をチャリンと入れるだけであろうが、「やらない」よりは「やった」ほうが断然“えらい”に決まっている。そして、一度でも「やった」からには、それを自慢しようと、SNSで拡散しようと、就活のアピールポイントとして有効活用しようと、本人の自由──さらに「自慢されて悔しいからオレも(アタシも)やってやる!」みたいな連鎖にまで及べば、まさに相乗効果ってヤツではないか。要は「動いた」「結果を出した」ことが大切なわけで、動機が純粋か不純か……なんてえのは関係ないのである。偽善上等!

 

実際、同番組による一連のやりとりを報じていた記事の下にあるヤフコメ欄には、

 

「紗栄子はあんまり好きではないけど、芸能人なんだしボランティアが売名?何が悪いか分からんね」
 
「正直紗栄子は嫌いですけど、自分で実際に誰かを助けようとするその行いはとても尊いものです」
 
「好きなタレントではないが、『母は強し!』を感じる」

 

……など、タレントとしての紗栄子の好き嫌いは切り離し、きちんと称賛すべきところは称賛するといった民度の高い意見が目立った。こうした風向きの変化も、“外野”の心ない声をよそに淡々と“自分”を貫きとおしたがゆえの“副産物”なのかもしれない。

 

ところで、今回の新型コロナウイルス騒動にかぎっては、ボランティアのやり方がじつにむずかしい気がする。ホランティアとは本来「実害を免れた(=運良く恵まれた立場にある)人が、実害を被った人にする無償の行為」であるのに、ウイルスは誰もが例外なく“感染”の可能性があるため、下手に動けばかえって多大な迷惑を周囲に与えてしまったりもする。じゃあ、お金を寄付……ってことになっても、それは一体どこへ最終的に届くのが正しいのだろう?

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