「若者の過剰な敬語は日本語の乱れなのか?」問題について、あらためて考える
citrus編集部御中 ●●様──我々日本人が社会に出ようとするころ、手紙やメールのやりとりで一度はやらかしてしまいがちな誤り、「敬語の二重化」ってやつだ。
いわゆる「ファミレス敬語」と呼ばれている「本日は、店内でお召し上がりでよろしかったでしょうか」や、身内に対する謙譲語「母に買っていただきました」といった表現も、よく若者の口から……いや、ときにはいっぱしのオジサン・オバサンの口からも耳にする。一応、言葉のプロとしてメシを食ってきた還暦間際の私だって、酒の席での雑談などで「この手のミスは絶対に犯していない!」と断言できる自信はない。
そして、こうした無駄な敬語の乱発現象を「日本語の乱れ」だと憂う “大人” も少なくはない。が、言語学者たちは「乱れているのではなく、日本語が変化している」と見ているのだという。そんなことを書いている記事を『現代ビジネス』が配信していた。
同記事では、前出の「本日は、店内でお召し上がりでよろしかったでしょうか」──つまり、これが最初の会話であるにもかかわらず、過去形してしまう “違和感” は、「より丁寧に物事を伝えたいという気持ちの表れ」だと分析する。詳細には、
現在形でそのまま言えば良いところを、過去に一度戻っていうわけですから、時間的に遠回りな、距離を置いた言い方になります。すなわち「非直接的」な話し方になるわけです。距離感を出した表現というのは、丁寧表現の基本原理の一つです
……といった理屈である。「母に買っていただきました」も「身内でも敬うべき人だからこそ、経緯を表したいという気持ちが先走って生み出された言い回し」であるらしい。あと、有名無名を問わず、いつ・どこから攻撃されるかもわからないインターネット・SNS社会においては、「とりあえずは丁寧に…」的な敬語の過剰化も、一つの有効な “自衛手段” となっているのかもしれない。
たとえば、
たしか、村上龍が小説『歌うクジラ』で「社会経済の徹底的な合理化を図るため、国が敬語を禁止する」といった近未来のニッポンを描いていたが、そのとおりにいっそ敬語なんて全部取っ払ってしまえば、日本人のコミュニケーションも格段とスムーズに流れていくには違いない。だけど、いっぽうで「母に買っていただきました」的な微妙な “進化” も含めた日本語独自の味わいも、一気に失ってしまうことだろう。こうやって、あれこれと使い方を模索しなければならない面倒臭さもまた、れっきとした日本文化の捨てがたい “長所” なのではなかろうか?