一時は生産中止状態?『キリンレモン』が歩んだ苦難の道

コラム

citrus 二階堂銀河

 

『キリンレモン』と言えば世代を問わず人気のサイダー飲料。誕生からもう間もなく100年を迎えようとしていますが、これまでの間には、生産中止状態に陥るなどの苦難を凌いだ歴史があったのです。今回は『キリンレモン』が今日まで歩んだ道のりをご紹介します。

 

 

■誕生~『キリンレモン』の原点

もともと、日本国内においてサイダー飲料は、主にビールメーカーから発売され、広く国民に浸透したという歴史があります。そんななか、キリンビールも1926年に新しい工場を横浜に設け、サイダー飲料の製造に着手。そして1928年に『キリンレモン』が誕生しました。

 

『キリンレモン』の魅力はその爽やかな無色透明さ。それをアピールするために、キリンビールは当時色つきが一般的だったびんの色を無色にしました。さらに、台湾産の白ザラメやイタリア産のクエン酸を輸入して使用した味へのこだわり、光線による品質劣化を防ぐ目的で一本ずつの個包装を選んだ製造面でのこだわりと、キリンビールはさまざまな面で工夫を施していきます。

 

 

■戦争が始まり一時生産中止に……厳しい期間を経て自由販売の時代へ

第二次世界大戦が1939年に始まると、清涼飲料は「ぜいたく品」とみなされ課税の対象となりました。そして1940年には統制価格が適用されることに。さらには燃料統制などの影響も相まって、工場の稼働率は低下。『キリンレモン』はほぼ生産中止状態に陥りました。

 

価格統制は戦後も続き、原料となる業務用砂糖は配給制という状態。砂糖だけを使用していることを意味する「純糖」を当時謳っていた『キリンレモン』を生産することは、難しい状況にありました。

 

しかし、1950年11月にようやく価格統制と清涼飲料税が廃止になり、1952年には砂糖の自由販売も実現しました。同年4月、『キリンレモン』はネックラベルに「純糖」の文字を入れ、新しいスタートを切ることができたのです。

 

■目覚ましい売り上げを記録し、トップブランドの地位を確立

1958年になると、『キリンレモン』のびんは、現在の容器の原型となる無色透明のプリントびんというデザインになりました。さらに1963年になると、自動販売機での販売を想定した『キリンレモン』200mlびんを新たに設計しました。

 

そして同年4月、自動販売サービス株式会社(現・キリンビバレッジ株式会社)を設立し、清涼飲料の自動販売機での販売を開始。この自動販売サービスは当時日本で初めて。特約店(メーカーと特別な契約を結んだ卸業者)を経由しないルートセールスで国産清涼飲料の販売を実現させたのです。

 

また、1960年代に入ると自動販売機用のびんを「キリンレモンクレール」という名称に変え、デザインも変更させるなどの改良を重ねたことで、目覚ましい売り上げを記録。1973年には透明炭酸飲料のトップブランドとしての地位を確立しました。その後も、容器を缶やペットボトルに移すなど大きな変化を経てきた『キリンレモン』。そのブランド力は今なお衰えることのない輝きを放っています。

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