ダウンタウンも霜降りも…「吉本興業」100年の歴史/全ての始まりは夫婦で手掛けた寄席

コラム

citrus 二階堂銀河

テレビで活躍するお笑い芸人が数多く所属する吉本興業ホールディングス株式会社(以下、吉本興業)。その始まりは、吉本吉兵衛・せいという夫婦が寄席を経営し始めたことでした。100年以上も続く、吉本興業のその歴史をご紹介します。

 

■お笑い界の一大勢力・吉本興業の始まりは、大阪の寄席から

1912年、吉本吉兵衛・せい夫婦は大阪の天満天神の近くにある「第二文芸館」を買収しました。この寄席の経営から吉本興業の歴史は始まったのです。そして、その翌年1月には「吉本興業部」を設立。そこから翌年の1914年にかけて次々と寄席を買収しチェーン化していきました。

1921年11月には、東京浅草六区の劇場「御国座」を借り、安来節の家元である伝説的民謡歌手の「渡辺お糸」一座の公演をかけ、東京進出の足掛かりとします。そしてほどなくして神田の寄席「川竹亭」を買収し、名称を「神田花月」として、見事東京進出を果たすのでした。

 

 

■夫婦が二人三脚で作り上げてきた吉本興業というブランドの基盤

そんな上り調子の1924年に、吉本吉兵衛が39歳で死去するという悲劇が起こります。後任はせいの実弟・林正之助が担当となりました。一方のせいは、1932年に「吉本興業部」を「吉本興業合名会社」に改組すると、主宰者に就任。そして、1934年には各所への寄付の功績などが称えられ、大阪府から表彰をもらうという栄誉を受けました。

 

戦後の1948年になると「吉本興業株式会社」に改組し、せいが取締役会長、林正之助が取締役社長に就任します。しかしその2年後、再び悲劇が訪れ、せいが60歳のときに肺結核を患い死去してしまいます。吉本吉兵衛・せい夫婦の物語はここで幕を閉じますが、二人が興した吉本興業の情熱は途絶えることなく後世へと引き継がれることとなります。

 

 

■戦後の復興期、夫婦亡き後も歩みを続けた吉本興業の快進劇

吉本吉兵衛・せい夫婦亡き戦後の復興期。この時代になっても吉本興業の発展は留まることを知りませんでした。同社はさまざまな劇場を新装開場させ、さらに、1950年代に入りテレビ放送が開始されると、後の「吉本新喜劇」となる劇団「吉本ヴァラエティ」を発足し、「アチャコの迷月赤城山」生放送するなど、お茶の間にも存在を見せつけました。

 

そして1960~1970年代になると、吉本興業所属のお笑い芸人が次々テレビで活躍。1980年には、現在フジテレビが復活させたことで知る人も多いお笑いコンテスト番組『THE MANZAI』を放送。これによって一大漫才ブームが到来し、多くのスタータレントが誕生しました。

 

 

■100年もの長い間、人に笑顔を届け続けている吉本興業という存在

1982年には、今も運営が続くお笑い芸人養成のための学校「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校し、メディアで活躍する数多くのお笑い芸人を輩出しました。近年ではお笑い芸人だけでなく文化人、俳優、アイドル、ミュージシャン、ダンサー、アスリートといった、マルチなタレントマネジメント業務も手掛けています。

 

そして2020年現在。「吉本興業」は、合計約6000名のタレントが所属するほどに成長し、当初主としていた劇場運営だけではなく、様々なショウビジネスを展開するなど、幅広い形で社会貢献を果たしています。1921年に大阪で始まった小さな寄席は、100年後、数えきれないほど多くの人に笑顔を届ける大会社へと成長を遂げたのです。

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