新井恵理那アナの「ギャルディスり」は、はたして差別的な発言だったのか?
4月4日に放送された、フリーアナウンサーの新井恵理那(31)が進行を務めるバラエティ番組『爆笑問題&霜降り明星のシンパイ賞!!』(テレビ朝日系)で、新井アナがポロッと口から漏らした「ギャルディスり」が、ほんの少々話題になっている。おおよその流れは以下のとおりであった。
ゲスト出演していた、ケンカ&悪口芸でブレイク中のコワモテお笑いコンビ『鬼越トマホーク』に『爆笑問題』の太田光(55)が
「悪者イメージのこういうヤツらが、ちょっと優しさみせると、ころっと世間は印象を変えるからね。急にCM(の仕事)が来たりする」
……とツッコミ。それを受けた新井アナは「わかります!」と同意したうえで、
「ギャルの家がちょっと綺麗なだけで、すごくイメージいいみたいな」
……とリアクション。ところが、この新井アナによるギャル論(?)に対し、「ギャルを見下している」だとか「差別発言!」といった声が、インターネット上で一部散見されている。
「ギャル」の定義を明確化するのはむずかしい。一般的なイメージとしては
「1990年代〜2000年代にかけて渋谷のセンター街や109周辺にたむろしていた、女性ファッション誌『egg』を愛読する10代〜20代前半の女子」
……みたいな感じで、もちろん現在は“あのころ”の勢いと比べれば明らかに失速の一途を辿っており、雑誌で言えば『Popteen』あたりがその文化を緩やかかつ細々と受け継いでいる……ってところではなかろうか。
ちなみに、2年ほど前に私が寄稿した記事のなかに、以下のような“ゴメス・オリジナル”による「ギャルの定義」がある。
・ギャルとは、極論「ヤンキー(女子)の進化形」である
・ただし、ヤンキー特有の「一途さ」だけじゃなく、それとは矛盾した「柔軟さ」も(ときには)併せ持つ
・「ヤンキーの進化形」ゆえ「強めギャル」「かわいめギャル」なる分類法は、私のなかでは存在しない。ギャルとはすべてが「強め」である
・「ヤンキーの進化形」ゆえ、生息するコミュニティ、行動範囲は基本狭い
・生息するコミュニティ、行動範囲は狭い傾向があるゆえか、客観性には乏しい
・客観性には乏しいゆえ、言葉に澱みがない
・瞬発力は長けているが、持久力に欠ける傾向がある
・でも、瞬発力を衰えさせない体力と生命力は強い
やや「断定しすぎ」なきらいはあるのかもしれないけど、なかなかによくできている……と、我ながら感心する。そして、これらを総合すれば
「ギャルは発信力という面においては抜群に優れている」
……ということだ。たとえば、もう10年以上も前の話だろうか、「汚ギャル(おぎゃる)」なる言葉が流行ったことがある。「何日も風呂に入らず、服も着替えない不潔なギャル」という意味だが、当時、一部の先鋭的なギャルたちは、その不潔さを競い合っていたフシもあり、そのキャッチーなパワーワードは当然のこと瞬く間に“お茶の間”レベルにまで拡散された。
もしかすると、今のギャルは黒くも汚くもないのに、そのころ我々に刷り込まれた「ギャル=不潔」という概念はいまだ根強く我々の脳内にこびりついているのかもしれない。だったら「手に追えない不良が雨の中、傘も刺さず段ボールに入っていた捨て猫の頭をなでているのを目撃されただけでいいヒトっぽく見える」理論によって、
「ギャルの家がちょっと綺麗なだけで、すごくイメージがいい」
……という穿った物の見方が出てくるのも無理はない。とどのつまりが「強め」の「瞬発力」や「生命力」が生んだ「偏見」という名の副産物ということだ?