「故人の特定は可能か?」ボランティアスタッフに届いたアメリカからの調査依頼 果たしてその結果は…
ふじぼう (@bow_fujita)さんの「故人の特定」に関する投稿が話題になっています。
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とある日本文化センター的なところで長年ボランティアスタッフをしてる妻の元に、Santa Cruzの墓地から「日本人と思しき名前が刻まれた墓石があるが、故人を特定することはできないか?」という連絡があったのが数週間前。本田政七という名と熊本県の住所が漢字で刻まれた墓石の写真が送られてきたと。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 29, 2021
その2つだけを手がかりに本田さんを特定するための調査活動が始まった。ちなみに墓地のレコードにはSeishichi Hondaという名と1863年生まれだったという記録が残っているのみ。渡米してきた日本人の情報はサンフランシスコ領事館で管理されているらしいが、第二次世界大戦で戦前のレコードは全て消失。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 29, 2021
墓石には当然、命日も記されていて1909年に亡くなったということなので享年46歳。残る手がかりである墓石に刻まれた住所をググったところ、自治体の統廃合により完全一致する住所は現存しないものの、字(あざ)が同じバス停を見つけることができた。バス停の名前は結構昔の名前が残っているものだ。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 29, 2021
このバス停の近くにお寺を見つけた調査員(妻)は、ひょっとしたら本田さんの子孫を知る檀家さんがいるかもしれないという仮説のもと、そのお寺に電話をしてみた。住職の話では界隈に本田家はいくつかあるのであたってみていただけることになり、1週間後にまた連絡することになった。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 29, 2021
1週間後...お寺に電話したところ、新たな事実がいろいろ明らかになった。まず墓石に刻まれている政七という名前、墓地の記録にもSeishichiと書かれていたが、正しくは改七と書き「たいしち」と読むそうで、1863年当時に本田さんは近隣の神社で命名されたらしく、その証拠に御札が残っていたそうだ。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 29, 2021
政と改と字が似ていることから墓石に間違えて刻まれてしまったのか。しかしそれならば墓地の記録のローマ字もSeishichiになっているのは不可解である。渡米後に理由があって政七と名を改めたのかもしれないが、アメリカの地で本田さんを知る人でなければ、その真実はわからないだろう。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
さらに驚いたことになんと本田さんの直系の親族の方がいまも近隣にお住まいで、こちらが電話をかける前にお寺で本田さんの話をしながら涙しており、ちょうど15分前にお帰りになったところだったという。その方から見ると本田さんは曾祖父、ひいお爺さんにあたるという。お陰でかなり詳しい話が聞けた。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
本田さんが渡米した歳は定かではないが、結婚されてて1人息子がいて、その息子さんが6〜7歳のときに生活が苦しくて出稼ぎのために渡米したのだという。仮に20代前半で息子さんを授かったとすると30歳くらい、つまり1893年頃に渡米したのではなかろうか。日清戦争が開戦する前後という時代背景。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
ちなみに本田さんが生まれた1863年は文久3年、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の時代。幕末に生まれ明治へと世の中が大きく変わる時代を生きてきたことになる。江戸時代生まれの人を令和時代にアメリカから辿ってるってそれだけでなんかすごい。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
本田さんと同じように出稼ぎ目的で渡米して、農業の下働きをしていた若者が多かったようだ。このスライドを見ると当時の背景がうかがえる。
サンフランシスコ・ベイエリアと日本の歴史 https://t.co/z4gOGcy02E pic.twitter.com/9paMFewDNx
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
妻子を日本に残してアメリカに渡ってきた本田さんがどのような生活を送っていたのかわからないが、稼いだお金ば日本に住む家族に送っていたらしく、その仕送りのお陰で貧しくも日本の家族は生き延びることができたと、現世まで本田家では語り継がれてきたそうだ。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
本田さんは日露戦争中(1904〜1905)に国にもお金を送っていたらしく、その証拠として国から贈られた朱杯がいまも残されており、正月や祝いの席などで親族でこの朱杯で酌み交わしながら、御先祖の本田さんの行いに感謝すると共に語り継がれてきたという。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
Santa Cruzの墓地では本田さんと合わせて7つの墓石に日本人の名が刻まれていて、今回の調査依頼の対象はその7人だったわけだが、他の6人は氏名のみしかわからないため、追跡できるとしたら日本の公的機関のレコードしかないだろう。しかし前述したようにサンフランシスコ領事館の記録は消失してると。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
墓石に住所を残した本田さんだけが、このようにして子孫に辿り着くことができたのだが、アメリカの墓地に日本の住所を刻んだことから、やはり日本に残してきた妻子のことがずっと心に残っていたのだろう。片道切符の覚悟を持って渡米したのだろうが、家族を思う本田さんの気持ちを考えると切なくなる。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
依頼元のSanta Cruzの墓地側でもボランティアスタッフの方がいて、今回お話した人は今年仕事を引退したばかりで地域のボランティア活動に勤しむようになったとのこと。本田さんについては https://t.co/fVhUicJ4Kp に登録したところでひとまず調査は終了と。
— ふじぼう (@bow_fujita) March 30, 2021
すごいですね……。
ドラマみたいな展開に、一連の投稿を読んだ人からは「すごい話で興奮してしまいました!」「貴重な体験シェアありがとうございます」など、興奮冷めやらぬ声が届きました。
また、コロナが落ち着いたら現地からの続報を切望する人も続出しました。
投稿者の発信を機に、他の6名の方々の追跡も進むことを願います。