日本人の多くが間違っている?「多様性」の真意を語る投稿に納得の声
maromiso (@maromiso1)さんの「多様性」に関する投稿が話題になっています。
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多様性。日本には、私もですが「皆で仲良く」を叩き込まれて育った人が多いです。しかし「多様性」は「皆で仲良く」とは全く違います。「皆がそれぞれそのままで生きる権利を認め合う」、その人が好きでも嫌いでも仲良くても悪くてもその人はその人として生きていい。それが私の理解する多様性です。
— maromiso (@maromiso1) 09:00 AM - 01 Jan 1970
すごく納得……。
別に皆で仲良くする事が多様性ってわけじゃないですよね。
外から失礼します。
全くその通りだと思います。
自分と全く違う人がいたとして、好きになれないとしても、向こうからしたって同じかもしれない。
優劣でもなんでもなく、ただ違うだけなんですよね。
皆同じだったら、世の中はつまらないです。
— Cinnamonroll921 (@cinnamonroll921) April 6, 2021
「みんなで仲良く」は違いますね!各人の聖域(サンクチュアリ)を認め合い尊重する。違いを認め合いむやみに土足で踏み込まない事ですね!
— STEINWAY&PARENTS (@street768) April 6, 2021
「みんなで仲良く」する必要もなければ、「友達」「親友」も「作る」ものではないと思う。お互いが相手を尊重し肯定すれば(否定しなければ)充分。気がついたら友達であり、親友になってるものだ。
どうでも良いが、私には昔から「友達100人できるかな」には違和感しかなかった。数より質ではないか?
— 星みづき (@miduki_hs) April 6, 2021
皆仲良くっていうのが逆に息苦しさを生んでいるのかも。
皆んな仲良く、というのもおかしいんですよ。仲良くしても、しなくてもいい。なんでも強要するのが息苦しい。
— イタリアでゆる〜く (@casumitalia) April 6, 2021
失礼します。日本における「皆で仲良く」はつまるところ「皆で同じに」なんですよね。異質な者を排除し同調を求め、同質的なメンバーから成る集団の作り出す「空気」による「安心」をひたすら求める。結果、社会が息苦しくなるばかりだった。個人がありのまま生きられるほうがよほど生きやすいはずです
— 遠藤 厚志 (@endoatsu) April 7, 2021
イタリアで生活する人からはこういった声も。
日本では他人に合わせることで仲間を作り、それができない人に差別意識が向けられるような気がします。私の生活するイタリアでは、他人に合わせることなど誰の念頭にもありません。それぞれが個性を主張し、それが最大限認められます。少なくとも、それが多様性に繋がる一歩なのではないでしょうか。
— La dolce vita (@Ladolce29170359) April 7, 2021
また、このような声も寄せられました。
異質なものって、本来はそれだけで負担、ストレスなもの。だからこそ幼い頃から、みんな違う、だからきちん意見し、話し合いわかりあう、面倒くさく、時間のかかるプロセスが必要。
皆同じ、仲良くねの教育って、子供が成長する多くの機会を奪って、異質を許容する能力が育たない。
— はな (@nowarispeace) April 7, 2021
教育の段階から丁寧に「多様性とは何か」の本質の部分を学ぶ必要があるのかも。