「天然だよね」は褒め言葉なのか? “天然” の定義について考えてみた【前編】
ヒトを、とくに女性の性格や立ち振る舞いを形容するために多く使われるワードの一つに「天然」ってやつがある。どこだかの女性向け恋愛系サイトには、
「本人は認めていないけど、まわりには天然としか思われていないようなふわふわとした女性が、男子にとってはたまらない」
……なんてことが書かれており、そんな「天然女子」の定義を以下のように提示していた。
・人ががんばっていることを素直に認められる
・どんなときもマイペース
・喜怒哀楽がはっきりしていて付き合いやすい
・自然に相手に対して気を遣える
さて、いかがだろう? 正直、私は間違いだらけだと指摘したくなった。だって、コレだとただの「気配りの利くイイ子」じゃないですか! どれも、むしろ「天然」とは真逆の「計算高さ」を推奨しているフシさえ感じてやまない。
はっきり申そう! 今でもこの「天然」をやたら引っ張り出してくる御仁は少なからず実在するが、私はこの「天然」なるたった一言で対人印象を安易にくくってしまう言動がとても苦手だったりする。
たとえば「養殖」だとかの人的な工夫が加えられていない魚は貴重で高値がつくのと同様、人間の「天然モノ」も稀な確率でしか出会えないのが “本来” なはず……。そして、こうした「養殖理論」に当てはめると、「天然な人間」とは、極論すれば
「幼いころからの教育や社会関係といった外的環境から一切切り離された人間、あるいは一切それらを受け入れられなかった人間」
……のことを指し、ゆえに場の空気を読めない……どころか「場の空気」の存在自体に気づいていない、一種のサイコパス的な人格の持ち主だと思うのだ。
多くの男性が女性に対して「キミって天然だよね」と “決めつける” とき、たいがいそのニュアンスにはネガティブな要素がほんのり含まれている。
「このヒト、よくわからない…」
「これ以上わかりたくもない…」
……といった思考停止におちいった際に「天然」はじつに便利な単語であり、そして一部のグルマンや好事家を除く大半の凡夫たちは
「お金がかかって、どんな寄生虫がついているかもわからない天然の魚より、養殖という保護下で育てられた魚」
……のほうが安心して食することができるのではなかろうか。
そして、「天然」を「やたら引っ張り出してくる御仁が少なからず実在する」いっぽうで、「天然」と呼ばれることを「まんざらでもない」と感じている女性も、少なからず実在する。
しかし、私の感覚では「天然」と呼ばれがちな女性、すなわち「天然」の一言で片付けられてしまう女性は、水族館にいる、南米あたりから捕獲してきた奇抜な色の熱帯魚みたいなもので、
「水槽内(=自分のテリトリー外)で泳ぐ姿を見ているぶんには楽しいかもしれないけど、食べるのはちょっと勇気が…」
……と、結局のところは “恋愛対象” からは外されがちな印象がある。したがって、恋愛マニュアルにおいては、
「男性から『天然』扱いされたら要注意!」
……と記すべき……なんだが、これまでこの「正解」のロジックを導き出してくれる原稿に、少なくとも私は一度も出会ったことがなかった。ところが、である! つい最近そういう玉稿を発見してしまったのである。この話……次回に続きますm(__)m