よく言われる「仕事ができる人・できない人」ってなんだ? 曖昧すぎる判断基準に物申す!

コラム

 

『biz SPA! フレッシュ』が『仕事ができる人、できない人は「考え方の差」で生まれる』なるタイトルの記事を配信していた。

 

社会人デビューしたての20代に向けたビジネス指南的なサイトに掲載されているだけあって、そういったホヤホヤのヤングたちには、なかなかに鋭く刺さる金言で溢れていることに間違いはなく、もし内容に興味のある御仁は、リンクをクリックしてご通読いただきたいのだが、私は今回、この記事をきっかけとし、もはや“通常語”として世間に出回っていながらも、前々からやけに気になっていた“とある表現”……それだけについて語ってみようかと思う。

 

ズバリ「仕事ができる人・できない人」といった言い回しである。

 

私は正直、この「仕事ができる・できない」といった絶対二択でしかない評価の形容が「勝ち組・負け組」に並んで、とても下品で嫌だったりする。

 

いったい、どこらへんのなにをもって「コイツは仕事ができない!」と断言し、「ダメ人間」のほうへとカテゴライズするのか? 営業だったら「毎月の売り上げ」なんかで、ある程度のジャッジは可能なのかもしれない。経理なら仕事を仕上げる速度かつ正確さ? しかし、チームプレイで動く、たとえば開発チームとかは? 総務は? 人事は?

 

野球に例えるなら、ベンチを温める補欠メンバーは「仕事ができない」のか? 仮に、自分のチームが完封勝利をおさめたとする。だったら、投手が一番「仕事ができる」のか? 守備でゴロやフライをさばき、打って点を取った野手、それに捕手は「その他大勢」なのか? 致命的なエラーをしてしまった選手は、やはり「仕事ができない」のか?

 

そもそも、「仕事ができる・できない」を最終決定しているのは誰なのか? 上司? 上司だって神様じゃない。そこに個人的な好き嫌い=主観が混在してしまっても無理はない。とどのつまりが、普段お手軽に乱用されている「仕事ができる・できない」というレッテルは、大半が上司をも含む同僚間の「なんとなく」な噂話レベルを「なんとなく」多数決にした、じつに脆弱な社内世論のようなものにすぎないのではなかろうか。

 

我々フリーランスだと「稼いだ額=年収」でその振り分けをするのが、もっとも手っ取り早いと思われるのだけれど、数字だけから「仕事ができない」のひと言で隅へと追いやられるのは、あまりに寂しい……。

 

また、野球に例えてしまって恐縮ではあるが、年俸2億や3億を稼いでいるプロ野球選手だけが「仕事ができる」わけではない。年俸1千万前後クラスでも、いい仕事をする職人的な人材だって、よくよく探せばたくさんいるではないか。あくまで、そういった杓子定規にこだわるなら、村上龍は村上春樹より「仕事ができない」ってことになる。そんなことはなかろう! 私はどちらかと言えば春樹派ではなく龍派である。

 

そりゃあ、企業やなんらかの集団に所属しているかぎり、「仕事ができる・できない」の査定が、ある程度ついて回ってくるのは仕方ない。が、それをコンセンサスの媒介的な「専門用語」や「隠語」として使用することを許されるのは、査定を仕事としている人たち、もしくは査定も仕事としている一部の経営陣だけなのではなかろうか。どうしても使いたいなら主語を「仕事」ではなく、もっと具体的に「パソコン」なり「計算」なり「場の空気を読むこと」なり……に、置き換えていただきたい。私だと「ベストセラーになるような原稿を書くこと」ができない人……みたいな風に、だw。

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